自毛植毛

HPリニューアル

HPを大幅にリニューアルしてみました。
BND3というソフトを使って、試行錯誤の末、取り敢えずリリース。
順次、変更しながら、充実していく予定です。

写真をメインに、文章も増やして行く予定です。

媒介。
カメラと言葉を媒介として、他者と、事物と、世界と繋がってゆく。
関係性。

準備は整いました。
後はやれる所まで、やり続けてみます。

http://breathnoir.velvet.jp/

【DM】第34回 連続写真展『ATLAS』2010/3/19(金)-21(日)


第34回 連続写真展『ATLAS』2010/3/19(金)-21(日)13:00-19:00

【思考ノート】錯覚を持ち続ける事

未来から現在を見ると言う事をよく聴く。
抽象度を上げて、俯瞰的に、鳥瞰的な視点でマッピングすると。
その具体性と無根拠の根拠をどれだけ信じられるか。

ずっとその事を考え続けてきました。

勝手に自分の師匠にしてしまった内田樹老師が、とても素敵な言葉でその事を克明に描ききっていました。

潜在的願望と現実が合致した人間は、そこにあたかも宿命に導かれて辿り着いたような「錯覚」を抱く事になる。
そう、「錯覚」なのである。
そして、「錯覚」であるにも関わらず、「錯覚できる人間」と「出来ない人間」の間には千里の径庭が横たわっている。
私たちは無数の「願望」を潜在的に抱いており、そのそれぞれについて「願望が実現した場合の細部」について想像を巡らせて、そのための準備を今すぐに始める事が出来る。
そして、実際に我が身にどんな事が起きるか、その殆ど99%は自力ではどうにもならない。
繰り返し申し上げるが、自分の手で未来を切り開けるという事はない。
どれほど才能があって、どれほど努力をしても、それが全く結実しないと嘆く人間がいる一方で、まるで才能もなく、ろくに努力もしていないけれど、どうも「いいこと続き」で困ったもんだとげらげら笑っている人間がいる。
その差は、自分の将来の「こうなったらいいな状態」について「どれだけ多くの可能性」を列挙できたか、その数に比例する。
当然ながら、100種類の願望を抱いていた人間は、一種類の願望しか抱いていない人間よりも、「願望達成比率」が100倍高い。

おおかたの人は誤解しているが、願望達成の可能性は、本質的な所では努力とも才能とも幸運とも関係が無く、自分の未来についての開放度の関数なのである。
それは「未来を切り開く」という表現からはきわめて遠い態度である。
未来のみ知性に敬意を抱く者はいずれ「宿命」に出会う。
未来を既知の図面に従わせようとするものは決して「宿命」には出会わない。
真に自由な人間だけが宿命に出会う事が出来る。
(内田樹『こんな日本でよかったね』P209)


想像力をどれだけ発揮し続けられるか。
それもどれだけ具体的に、リアリティを保持しつつ。
あらゆる可能性を考え膨らませられるか。

それを止めた時、そこで終わる。

漠然とした願望ではなく、欲望出来るか。

「動物には欲求(besoin)はあるが欲望(desir)はない。」
と内田樹老師は仰ってました。

人類と動物の決定的な違い。

どれだけ欲望を持ち続けられるか。

そのためには葛藤=ダブルバインドを経験して成熟していく必要がある。


そこから自分にとって大切な事物と、世界と、他者と、繋がっていく。
関係性。

関係性とは、その存在の不在を、欠落を感じる能力の事だということ。

親族が集まった時、「ある人」がいないことに欠落感を覚える人と、その人がいない事を特に気に留めない人がいる。
「その人がいない」ことを「欠落」として感じる人間、それがその人の「家族」である。
その欠落感の存否は法律上の親等や血縁の有無とは関係がない。
家族とは誰かの不在を悲しみの内に回想する人々を結びつける制度である。

<空虚>を中心にして人間の運命は形成される。
邪悪さも善良さも不幸も幸福も、その起源は<空虚>のうちにある。
<空虚>は因習的な意味では「存在しない」ものであるから、あらゆる人間的事象に起源は存在しない。
というより、「起源の不在」をきげんとすることが可能だと言う事を知った霊長類の一部が人類になったという言い方の方がより厳密であろう。
レヴィナス老師が教えられた様に、欲望は欲望の充足が欲望を更に亢進させるように構造化されている。
動物には欲求(besoin)はあるが欲望(desir)はない。
欲望がコミュニケーションを起動する。
(内田樹『こんな日本でよかったね』P64)



あらゆる線の交わりが点であり、点とは大きさも厚みもなく、ただ「そこ」を指し示すもの。
あらゆる線の交わりこそが、「自我」である。

それは、他者との関係性の中にこそ存在する。

関係性は関連し繋がってゆく。
1つずつ、ゆっくりと、繋げてゆく。

頭で考える前に、「踊り続ける」ことでしか、繋がりは始まらない。

アノニマスの意義

これまで、アノニマス(匿名性)ということの本質を考えてきました。
今後もずっと考えていく事でしょう。

重要なのは、「誰が」ではなく「何を」「なぜ」言っているか。伝えているか。

内容であり、過程であり、根幹となるもの。
それを吉本隆明氏は沈黙と呼んだし、
在る人々は暗黙知と呼んだ。

「匿名性と言いながら、なぜクレジット名を付けるのか」
と言う間違った問いは、昔からアノニマスを曲解してきた人が、常に発してきていた。

「誰が」を重視する人々によって。


「誰に」向かって発しているか。

敷居と間口の関係になぞらえる事も出来ます。

言葉も芸術も、あらゆる表現は、構造化され、分節され、解読される。
「誰が」は既に前提を超えてしまい、内容を、根幹を見つめる部分へと。

「あの人が言ってるからダメだ」とか、
「ソースは何だ」とか、
そう言う事は既に問題ではなくなる。



高城剛氏が、奥さんが仕事復帰した事へ向けてブログで素敵な言葉を書いていました。
同時にそれは、同じ様に共感できる人々へ向けてのメッセージでもある。

はてなブックマークでは批判的に書いてるのが目立った。
批判とかの前に、内容を感じられるかどうか。
それが重要だと思う今日この頃です。


高城剛ブログ「君が仕事に復帰すると聞き、僕は誰よりもうれしく思います。」

君も僕も、生きる事も伝える事もとても下手だけど、
心で話せば、人には絶対に伝わります。

いままでの仕事上、信頼できる人がひとりもいないならいいけど、
ひとりでもいるなら、その人たちがいる限り、出来ることは最後までやるべきではないのだろうか、と。

ずいぶんと長い間、世間では色々言われているようですが、もし問題があるとしたら、きっとそれは「挨拶」じゃないでしょうか?
「挨拶」や「挨拶の仕方」は、日本だろうが、どこの国だろうが、人と人の信頼の基本です。
緊張せずに、どんな時も落ち着いて笑顔で挨拶できれば、あとは絶対に大丈夫。
君の笑顔は、誰よりも素敵だから。
そして、はじめも終わりも自ら率先して挨拶をしたほうが、楽だし気持ちいいですよ。
だから、どんな時も自分自身の言葉で、まずこちらからちゃんと挨拶をする。
そしてお礼をする、感謝する、いつも心で話をする。
大事なことは、きっとそれだけです。
あとはピースに楽しく行きましょう!

フィルムとデジタルの選択

スナップ写真の個展を幾つかまとめて見ました。
フィルム、デジタル、135,6x6、6x7,4x5、カラー、モノクロ。
色々な手法を比べて見る事が出来ました。収穫。

今は一番、色んな手法が混在している時期で、ある意味過渡期でもあります。

デジタル写真での最大のポイントは、やはりトーンジャンプ。
夜間撮影など高感度になるととてもハッキリと分かる。
技術的制約をどう克服するか。それを写真の味とするか、サイズを小さくするか、どうするか。

フィルムのボトルネックは、フィルムや印画紙、薬品の安定入手。今後ますます種類が減り、値段が上がり、思う様なプリントが出来にくくなってくる。

一長一短。そこで何をどう選択するかが、今後の鍵となる。

業界の流れはデジタルへと。
コダックもカラーネガ用印画紙の生産を終了し、ますますネガフィルムの使用が厳しくなってきた。
最終的には、フィルムも薬品も印画紙も数種類だけしか残らない印象。
選択の余地が減っていく。そこが残念。

学生時代の時から年々印画紙の値段が上昇していました。
2000年代になって、フィルムや印画紙の淘汰が進み、品揃えも減り、陳列も隅っこに追いやられてきていました。

だからこそ、2006年に完全にデジタルへと移行しました。作品も仕事用も。
2006年にリコーGRDも出て、大体六切りくらいまでならプリントできる体制が整ったと感じました。
そこからわずか数年で大幅に進歩し、コンパクトデジカメまでも1000万画素を軽くオーバーするまでに。
日進月歩。1年後にはより高性能な機種が登場し、資産価値が下がる。
画素数も受光素子の性能が向上し、より質感がでるようになってきました。

だからこそ、デジタルプリントは、Lサイズ以外は外注してます。
インクジェット・プリンタではコストもかかるしあっという間に性能の良いものに取って代わられる。
富士のフロンティアが今のところ印画紙出力でいい感じ。DPEでも設置されてる割合が高いです。
大型出力も高性能機械の会社で出した方がトーンジャンプを減らせる。

プリントするごとに、最新の機種を持ってる会社を探し出し、プリント出力する。
デジタルの長所は、ネットで送信できる為、プリントする会社が遠くても頼めるということ。
ネットで比較検討し、値段とプリントの質、相性などを検討し、モニタマッチングしつつ、色を合わせていく。

暗室が「明るい暗室」になったことで、一番変化した部分は、何度でもアンドゥが出来る事。
プリントする手前で、モニタ上で確認する。

モニタマッチングさえ上手くいっていれば、出力せずとも大体狂う事が無くなってきます。

何を選ぶにしろ、その選んだ方法を信じて、きっちりとやる必要がある。
そうすることで、自分と写真との距離がより鮮明になってくる。

時代による淘汰と、こだわりと、本質と。
これが正解というものがないからこそ、自分で考えて選択する。

「知りたいという欲望」

内田樹氏の著作を纏めて読んでいる所です。
特に教育に関して、学ぶという事、「知りたいという欲望」とは何か。
今までも色んな人が色々と語ってきていますが、
内田樹=レヴィナス的な考え方が、構造主義的な考え方が、今のところしっくり来ます。

つとにロラン・バルトが指摘している通り、「無知」というのは単なる知識の欠如ではなく、その都度力動的に、主体的な関与を俟って校正されている。人は断固たる決意のもとに己の無知を校正するのであって、怠惰や不注意のために無知であるわけではない。
(内田樹『こんな日本でよかったね』)



人は無知を選ぶのは、惜しまぬ努力をし続けた結果であるということ。
とてもよく分かります。
何もしないと言う事に耐える事の辛さ。
その辛さに耐えるには、並大抵の忍耐力では勤まらない。

「学ぶ事への欲求」について、
「知りたいという欲望」について、
どういう事なのか。

内田樹先生は見事に言い現してます。


教師自身がつねにいきいきと好奇心に溢れ、さまざまな謎に惹き付けられ、絶えず仮説の提示と反証事例によるその書き換えに熱中していること。
それが教育を成立させる為の条件である。

もちろん、世の中にはそうではない教師もたくさんいる。
けれども、だからといって少しも心配するには及ばない。
(中略)
暗い表情、生気を失った肌、乱れた頭髪、投げやりな服装、重い足取り、虚無的な言葉。。。
そのすべてが「学びへの動機付けを失う事がどれほど人間にとって悲痛な事であるか」を全身で表現している。
彼らは彼らなりの仕方で、子どもたちに「学ぶ事への欲求」を失うと人間はどうなってしまうのかを教えているのである。
(内田樹『こんな日本でよかったね』)


なぜ、好奇心が生まれるのか。
人は、知れば知るほど、「自分は何も知らないのだ」と言う事に気付く。
1つ知ると、そこから新たに知らない事が幾つも派生してくる。
知ったかぶりしてしまった人は、そこで知的探求を止めてしまう。

知ってるフリをして、誰かが名付けた事を、反証する事もなく受け入れる。
するとそこから先に進む事は出来ないということ。

自分の無知さを受け入れる事で、
「知りたい」という欲望が生まれてくる。
さまざまなダブルバインドを乗り越え、
我々は常に新しい自分へと生まれ変わっている。

三日で全部の細胞が生まれ変わる様に、
毎日我々は目覚めた瞬間に生まれ変わっている。

ニーチェの「超人」思想をはじめとして、さまざまな考え方がある。

我々は、新鮮なまなざしで世界を見つめ、瞬間瞬間に新たな発見をする事が出来る。
その瞬間瞬間に、我々は、生まれ変わっている。

「作家がテーマを書き尽くしたのではない。世界が作家を見放したのだ」

と言う言葉がある様に、世界を見つめる事を止めた瞬間、全てが終わる。

写真家は、カメラのまなざしを媒介として、全身で、五感を六感を通して世界を知覚する。
発見するまなざしを失った写真家は、マンネリに陥り、自分の、人の、真似=劣化コピーを繰り返し、消耗してゆく。

常にアンテナを張り巡らせ、世界と対峙する。まなざしによる知的探求をし続ける。

そこから始まるのだと思います。

ストリートスナップの系譜

ウィリアム・クラインによって、ストリートスナップが確立されたのはそう遠い過去ではありません。
リアリズムという呪縛を解かれ、構図法という足枷を脱し、伸びやかに、都市そのものを切り取ってゆく。

写真の本質である「スナップ」が、アレ、ブレ、ボケを身に纏い、軽やかに疾走していきました。

絵画の模倣や、リアリズム、過去のお手本からの解放。

そしてロバート・フランクが、客観的という枠を抜け出し、
個人的な、主観的なまなざしによる都市の断片という、切り取り方を提示した。

ウィリアム・クラインとロバート・フランクによって、ポスト・モダンの、写真の根源とは何かという神髄へと回帰していったのでした。

光と影、陰と陽、生と死。

都市の多様な面を、個人的なまなざしで掬い取っていく。

それを1つのものの見方として、提示していく。

イデオロギーでもなく、お芸術でもなく。


時代が変わり、スナップが難しい時代となりました。
デジカメが普及し、誰もがカメラマンとなり、カメラが珍しくない時代に。
街中に監視カメラが溢れ返り、いつでも誰かに見られているという感覚を持つようになる。
誰もが常に何かを演じている。(サラリーマンやってる。でもね・・・という感覚。)
個を優先する時代になり、閉塞感が全体を覆い尽くす。
世界的な不況が到来し、行き詰まり感が漂っている。

カメラが珍しく、誰もが活発だった時代とは、まなざしの質が変化せざるを得ない状態に。

それでも、まなざしが、必要とされている。
同時代を生きる人々を、事物を、世界を、見つめるまなざし。
見るとは見られる事でもある。

他者から、事物から、世界からの視線を一身に受け止め、怯むことなく見つめ返す。
肉眼のまなざしに、カメラを媒介する事で、自分たちが見ている、知っていると思い込んでいるものの本質が隠されている事に気付く。

静止画としてまなざしが記憶されることで、見えてくる何か。

そのためには、カメラと一体となって、世界からの視線に対峙する。

ウィリアム・クラインから森山大道氏へと受け継がれたストリートスナップの系譜を、今の時代を生きる我々が引き継いでいく必要があります。

誰でも手軽に扱える様になった今だからこそ、まなざしとは何か、今一度考える必要がある。

写真の撮り方は、カメラでも変わる。

街と一体となって視線となる。

「擦過」と言ったのは森山大道氏。

時代の切迫感を感じながら、カメラマンは現場=ストリートへと赴く。

写真家にあるのは、ただ、現場のみ。

「スナップとは何か」
考えながら、今一度突き詰めてみようと思います。

声をかけて三脚を使ってキッチリと撮る写真。
風景を切り取るまなざしの写真。
スナップで、カメラと一体となるまなざしの写真。

あらゆる角度から、世界を、事物を、他者を見つめる事で、見えてくる。

そう実感しています。

答えなどないからこそ、挑戦する。

「あらゆる作品は、事後的に発見される」

内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』

内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』を読了。

内田樹氏がブログに書いている文章を纏めて本にしたもの。

ずっと色々と内樹本を読んできましたが、
纏め方によって、本の顔つきが全く変わってきます。

色んな視点があり、多様な価値観、多様な事物の見方があって、同じ内容でも色んな角度から考察している。

ブログでも同じ内容を様々な角度から捉えている為、
本を纏める時に、編集者がどのネタをチョイスするかによって、印象が全く変わってくる。

それだけ、幅広く、洞察が深いと観じられます。

今回の著書は、特に「教育」と「マスコミ」に関して取り上げている所を纏めてあります。

色んな見方、物事の捉え方を知る事が出来る。

なぜ日本の教育やマスコミがダメになったのか。

どんな構造で、どの様に問題点があるか、よく分かります。

そして、構造主義者らしい内田樹節がほどよく分かる。

レヴィナス的な「贈与のルール」が全ての根幹にあるという考え方がベースになってます。

同じテーマを幾つか纏めて読む事で、その問題点を深く掘り下げてゆく。

構造主義的な考え方あとても良く理解できました。


個人的には「平方根の法則」が成る程と感じた。
「例外的な振る舞い」をするものは、統計学的に決まっているのだそうです。

それは生物でもそうだという。

「揺れ動く粒子」があるのは「生き延びる上で必須」なのだそうです。

昔は、どの村にも「びっくり遺伝子」を持った人がいたそうな。
それと同じでしょうか。

全部が同じ動きしない生物は滅び去る。
誰もが同じ考え方で、権威の言いなりになったら、滅びる。

例外的な振る舞いをする存在があるからこそ、様々な亜種、変種があるからこそ、その種は、様々な要因からも逃れ、生き延びてきた。
皆が同じ方向を向いて、同じ考え方になると、その文明=生物は滅んでしまう。

そのことは、組織や集団でも言われますな。
皆が同じ考え方の人ばかりが集まったら、その集団は滅んでしまう。
様々な考え方の人がいるほど、刺激的であり、あらゆる困難にも対処できる。

固有さこそ重要だと。

内田樹さんの著書を読むと、自分が如何に何も知らないかを、改めて思い知らされます。
そして、ますます「もっと知りたい」という欲望が湧いてくる。

自分の無知さを自覚した者しか、出来ない欲望。
知ったかぶりすることなく、貪欲に知を求める。

内田樹本は、知の欲望を刺激し、さらに押し広げてくれる。
今回の本もお薦めです。

イメージのストックとデジャ・ヴュ

我々は生まれてから今まで、多くのイメージを目にしてきています。

毎日朝目覚めてから夜寝るまで、様々なイメージを浴びている。
新聞の写真から、テレビの映像、食卓の光景、家の中の小物の光景、街中の広告看板。
絵画に写真に動画にグラフィックに・・・。

我々は忘れているだけで、脳の奥底にメモリーされている。

特に今ではテレビや映画、DVDのイメージに加えて、インターネットでもイメージを情報として捉えている。

膨大なイメージのストック。

特に印象に残っているイメージは、関係性の中で、ふと、蘇る。

ふと、その光景が脳裏に浮かび、「デジャ・ヴュ」を感じる事もある。

イメージの関連性、関係性が強いほど、想像力が膨らんでゆく。

写真は元々、世界の、事物の表象であり、創造ではない。

「在るがまま」の本質の世界を、事物を、肉眼と違うまなざしで捉え、再提出する。
鑑賞者は、その経験を追体験することで、自分の持っている世界観を揺さぶる。

脳の中のイメージストックを喚起し、デジャ・ヴュを呼び起こす場合もある。

自分が知っていると思い込んでいる事物を、世界を揺さぶる事で、本質が顔を出す。

撮影者と被写体との関係性を想像し、想像的に追体験する。

解体と再生。

一種のゲシュタルト再構築。

そして新たなイメージをストックしてゆく。



1つの言葉が、イメージを喚起し、関連づけることがある。
1つのイメージが、想像力を喚起し、言葉を呼び覚ます。

言葉とイメージは、分かちがたく在る。
シニフィアンとシニフィエの関係。

撮影者は、自分の中のイメージを、世界を、揺さぶる為に、
世界を見つめ、世界から見つめられ、
価値観を再構築してゆく。
その繰り返しの中に、何が見えるか。

そこから更に想像力を喚起してゆく。

「コダック社、カラー印画紙生産終了」とダイナミズム

昨日、Twitterで流れてきて知りました。


コダックRAエンデュラスープラペーパー製造販売終了のお知らせ 2010.3.9

コダックよりRAエンデュラスープラペーパー(シートタイプ)全製品の製造販売終了が発表されました。
米国本社より、「全世界での需要の激減」を理由に、突如製造販売終了の通達があったもようです。現時点ですでに工場生産は終了しており、現在庫が払底しだい製品ごとに終了となります。
なお、RAケミカル(発色現像、漂白定着、スターター、安定補充液)は、継続して製造販売されます。

【在庫払底予想時期】2010年3月より順次

ナショナル・フォート製品情報より


モノクロ写真用印画紙の縮小に次いで、カラー印画紙まで縮小傾向に。
時代の流れでしょうか。


フィルムからデジタルへ。
確実に、着実に、フィルムを取り巻く環境が縮小されていく。

これはちょうど、カロタイプの登場によって追いやられてしまったダゲレオタイプのカメラと同じ印象を受けます。

銀メッキを施した銅板に陽画像を結ぶダゲレオタイプ。
しかし間もなく、ネガーポジ法を採用しガラス乾板に陰画を作り上げ複製を何枚も作る事を可能としたカロタイプが登場し、あっという間に写真の主流が移り去っていった。

ダゲレオタイプは複製が出来ない陽画像であるため、その一回性=呪術性に惹かれ、ダゲレオタイプを頑なに使用し続けたカメラマンもいましたが、写真の本質の1つである、複製技術としての機能を受け継いだカロタイプがその後発展していくことになった。

その当時、既にナダールが言った様に、「カメラの使い方は半日で覚えられる」

写真は、当初から、「誰でも」「簡単に」「複製できる」技術を目指していた。
その方向へと技術が目覚ましく発達していったのでした。

カメラの小型化から高速シャッター、明るいレンズ、よりシャープな映像をプリントできる印画紙、薬品などなど。
そしてモノクロからカラーへと移り、映画用のカメラまで。

そして、デジタルカメラが発達し、再びカメラはスチールと動画が一体化する方向へ進みつつあります。

デジタルにするか、フィルムにするかという選択肢は、やがて無くなっていく。

いえ、そもそもカメラが電子制御された段階(F3)で、デジカメへの流れが決まっていました。
フィルムカメラも電子制御されたブラックボックスに切り替わり、電源がなければ写らない。


境界が曖昧になり、
フィルムとデジタルの境界、
静止画と動画の境界、
絵画と写真の境界、
カメラ画像とCGの境界、
などなど、曖昧になって行くと思います。

そこで、リアリティの位相がようやくハッキリと変わる。

「写真は現実そのものの記録ではない」

という、写真の本質がようやく一般化されていく。

報道的記録としての価値は、とっくの昔にテレビなど動画へと移りました。


写真はようやく、その本質へと回帰していく。

肉眼とレンズを通したまなざしの違い。
世界の認識の違いによる、世界の見方の変容。
新たな視点を通す事で、世界を揺さぶる。
世界は確固とした普遍不動なものではなく、
不確実性を帯びた情報であると。

自分が認識していた存在を、括弧に入れることで、別の意味が浮上する。
そんな可能性が世界にはあると言う事。


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■ヴァーチャル写真集『古巴肖像』


「リトルモア・ブックス写真公募展」で入選に選んで頂きました。
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